大人のレッスン児童・思春期の臨床に携わる中で、1992年頃からの講演の記録や、いくつかの会誌にコラム風に載せた文章を小冊子にまとめる機会を得ました。

「レッスン」とはおこがましいのですが、子どもとかかわる大人の皆様にいくばくかお役に立てれば幸いです。

以下の文章は「大人のレッスン」の中から取り上げたコラムです。



さんクリニック院長・精神科医師 松本 喜代隆



正しい食卓
   中学生の男の子をもつお母さんから「うちの子は、最近、とても不機嫌で、疲れているようです。話しかけてもろくろく返事もないし、はてはウルサイ!と怒鳴るしまつです。よっぽど学校がストレスなのでしょうか。こういう場合、親はどうしてあげればよいのでしょう」と尋ねられました。

   くわしいことはわかりません。学校の内外で様々なことがあるのだろうと思います。原因を見つけて解決できれば一番いいのでしょうが、本人にいくら開いても、とりつくしまがないようなのです。しかも、わけもなくただただ不機嫌ということだって大いにありえそうです。
こうなるとお母さんとしては、原因の探求型解決ではない解決手段をとるしかありません。え?そんな方法があるのか?あるのです。

   思い出して下さい。まだ私たちが中学生だった頃。
学校でイヤなことかあって家に帰ると、夕食のテーブルの上に、大嫌いな魚の煮付け(もちろん、あなたの場合は、あなたの一番嫌いな料理におきかえなければいけません)がドーンとおかれてあった日のことを。もう、何というか、行き場のない腹立ちが爆発して、不機嫌度三倍増でしたよね。責められるいわれのない母親に思いっきり八つ当たりしたものです。
反対に、好物が出ていると、おっ、今日はカレーライスだ!と、嬉しくなり、学校でのイヤなことが薄められて、その日は、結局終わりよければすべてよし、という一日になったことも多かったように思います。

   お母さん方は、子どもさんの中に、貯まり始めたストレスや疲れや不機嫌や悲しみや怒りを見つけたら、夕食に何日か、カレーライスを続けてあげてください。野菜サラダ抜きの、ラーメンのおまけがついたスペシャルカレーセットならもっといいな。たぶん、どんな立派なアドバイスよりも有効です。

   身体や脳に良い、栄養学的に正しいバランスのとれた食事よりも、正しくない食卓のほうが心にはいい、なんて、なんだか救われる話でしょう?


世代間伝達
   「ほめて育てよう」という言葉に異論のある人は少なかろうと思います。ですが、いざほめようとすると、意外に難しいものですよね。とってつけたような下心見え見えのほめ方になってしまったり、ほめたくてほめたくてたまらないのに、ちっともほめるに値することをしてくれなかったり。

   そこで、今回は皆さんにお願いをしようと思います。ぜひ、ほめてほしいことが2つあるのです。特に、ものごころつく頃から思春期にいたる頃までの子どもたちに。と言うのも、思春期になってからでは、たぶん、ほめ方はもっと難しくなってしまいそうだからです。

   さて2つ。 1つめは「人格にかかわる言葉」でほめるということです。優しい、強い、思いやりがある、勇気がある、ひとりぼっちの人の味方だ等々。自分の好きな人(親とか先生とか)から、人格をほめられる経験はとても大切です。誰もが弱いと思い、本人さえも自分はどうせ弱いと思っている子がいたとして、ぜひ「人がなんと言おうと、私は、あなたは本当は強い子だと思っている」とほめてほしいと思います。
   その言葉は、その子のこころに残り、やがてもっとも困難な場面でその子を支えるかもしれません。
   2つめは「身体」です。小さい子にとって、身体こそは自分そのものです。どうかたっぷりと、本気でほめてあげて下さい。
   きれいな指をしている、美しい髪がある、目の形がいい、二の腕の筋肉がすばらしい。
   ガリガリにやせた子に風呂場でガッツポーズをさせて「すばらしい体をしているね一」と感心して下さい。男の子がお父さんから、強くすばらしい体だとほめられる、これ以上の栄光があるでしょうか。

   この2つのほめ方に共通するのは、何もいいことをしていないのにほめられる、と言うことです。損得抜き。ただここに存在するというだけでほめられるという経験なのです。
   思春期は、身体と人格にまつわる劣等感を過剰に抱きやすい時期です。だからこそのお願いでもあるのです。

   それからもうひとつ大切なことがあります。それは、このようにほめられたうれしい経験は、必ずマネされるものだということです。大人になった時に必ずマネをします。うれしかったからです。だから自分の子にも同じようにほめてあげたくなるのです。
   こうやって、ほめ方は引き継がれていくことになります。どうほめるか、それは大人の大切な役目です。


「そっと助けてください」 
−児童・思春期外来の子どもたち−(高校の先生方を対象に行なった講演記録より)

投げ出さないために
   それからもう一つ。これは看護の言葉ですが、看護師さんの教育のなかでよく言われるのは、「キュアーすることは必ずしもできないけれども、ケアーすることは必ずできる」という言葉があります。
   キュアーとは治すということです。病気が治るということは必ずしも達成できるとは限らないわけです。末期のガンであるとか、重い統合失調症であるとか、さまざまな病気があります。どうしても目が見えなくなってしまうという状況もあるかもしれません。そういう病態を治して下さいと言われても、治してあげることが叶わないことも多いわけです。

   しかし、ケアーなら、看護、看て護るということなら、どんな状況でもできるという言葉です。これが、看護師さんを支えている誇りみたいなものです。3Kとか4Kとか、あまりよろしくない職場だと言われます。給料も安いわけだし、そういう状況で支えているのは、医者が「この患者さんは治りませんよ、もう治療できることは何もありません」と投げ出したとしても、看護はけして投げ出さないという誇りです。

   何度も強調しますが、子どもさんの援助を続ける時に、私たちは投げ出さないで済む考え方、すぐに効果が出なくても、長続きする考え方が必要なのです。どちらかと言えば、ケアーの考え方です。
   「もう治らない、ダメだ」というふうに見てしまうと、それはもはや子どもに関わるプロとしての仕事ではないということになってしまうかも知れません。どの考え方であれば、自分は投げ出さないで済むかということを良く考えなければいけないなと思います。

長続きする、ということは、子どもが人につながることを身を持って経験できるということであり、その事実の上に立って、「私とあなたがこうやってつきあい続けることができたということは、あなたがやがて、私以外の人ともつきあうことが可能だという証拠ですよ」と言ってあげられるということであり、さらに、「人とつながるということは、語呂合わせみたいだけれど、未来にもつながることができるということなのですよ」と言ってあげられるということです。

   たとえば1年間のつきあいのあとで、そう言ってあげたくて、私たち大人は長続きする関わりの方法や、考え方を試行錯誤するのです。


隙が好き
   さて、「頭ごなしに怒ってはいけない」とよく言われますよね。小さな子どもだって一個の人格があるのだから、頭ごなしにガツーンと怒るのは人権無視であって、子どもを物としか思っていない。だから、怒るとしても、理由をきちんと言って怒りましょうと言われます。しごく当たり前の話です。

   でも、さっきの理屈負けをする、しないという話に強引に結び付けて言えばですね、たとえば理屈で怒らなければどういう良いことがあるか、と言いますと、お父さんからガツーンと怒られる。理由はまったく無し。頭ごなし。すると、子どもの心の中には「お父さんの方が間違っている。お父さんは横暴だ。自分のほうが今回は絶対に正しい」という気持ちがあふれてくるというか、まあ支えられるといいますか、そういうことが生じます。

   ところが、理屈付きで怒るとですね、常に正しいのはその理屈を言う人の方になってしまいます。
「いや僕はこう思うんだけど」と子どもが言うと、「そうかな、でもこういう側面から見ると(爆笑)、ほら、これこれこうでしょ。違うでしょ」とやんわり否定する。子どもがさらに、「いや、でもこうだ」と言っても、「いやいや」とか言いながら、最後は必ず勝つ訳です(笑)。理屈で勝ってしまう。そうすると正しいのは相手の側になります。つまり、大人の側ということになりましょうか。先生であり、父親であり、母親であるということになります。
さっきのガツーンと怒られて、「正しいのは自分だ」と思うのとはえらい違い、です。

   ガツーンと怒ればよろしいということでは全然ないんですけど、でも理屈、隙の無い感じというのは、実は子どもが自己主張をするとか、間違ってもいいから自分を出すということの芽を随分摘んでしまうことになりかねないな、と思ったりするのです。

   だから、できれば、少し隙を作っていただく。ほんとは天然で、普通にしていても自然に隙があるというのが一番いいんでしょうけれども、そうそうそんな方はいらっしゃらないでしょうから、まあ、自分なりに少し隙を作る。

   おんなじような話で、子どもにとってどんなお母さんが一番理想かという精神科医の裏話では、「少しぬけたお母さんがよろしい」(笑)となっています。あーよかったと思われた方もいらっしゃるでしょうし、しまった私はぬけていないと思われた方もいらっしゃるでしょう。
ぬけてなくて隙が無い感じ、というのは子どもはたぶん息苦しかろうという想像です。あくまで、たぶんですよ。

   現代社会は、子どもの数が減ってきたり、経済的に豊かになったり、たくさんの情報があったりで、子どもたちに対して大人の目が行き届く社会になっています。社会も学校も家庭も、隙が無いことを求めて、それを手に入れたようなところがあります。そのことは、隙の無いことが、子どもにとってよくない面があるということを考えると、ちょっと深い問題です。

   何事にも一長一短がありますから、ガツーンと怒れば解決するという事では全然ないんですけれどもね。まあそういうところでしょうか。